【経営者】創業179年の歴史!麒麟山酒造の齋藤俊太郎社長に聞く「守る経営」とは

麒麟山酒造の齋藤俊太郎

今回は新潟にUターンをし、麒麟山酒造株式会社を継いだ齋藤俊太郎さんにインタビューを行いました!
地域に根付く名峰 麒麟山。そして、日本を支える伝統文化 日本酒。創業から179年、代々の当主は淡麗辛口の酒造りを頑なに守り続けています。
そんな齋藤さんに、後継するまでの経緯や、経営者としての考え、日本酒業界を守るための施策など幅広くお聞きしました!

 

“継ぎたい”という想いが芽生えるまで

麒麟山酒造

ーご自身としては今7代目ですよね。幼少期、将来についてどのように考えていたのかを教えてください。

齋藤俊太郎さん:プロ野球選手になりたいと言っているような、普通の少年でした。ですが、環境はやはり周りの子どもたちとは少し違っていましたね。居住空間は酒蔵の中、そんな家で過ごしていました。
麒麟山酒造の従業員は、今は通いで働いていますが、当時は泊まり込みで仕事をしていました。そんな中で、皆からは「将来この会社を継ぐんだから、しっかりしろよ!」とよく言われていました(笑)狭い町でしたので、外で遊んでいても町の人達から「頑張れよ」と言われるような幼少期でしたね。

そのせいか、子どもながらになんとなく「俺が麒麟山酒造を継ぐのかな~」と思ってはいました。「やりたい」というよりは「刷り込みを受けた」と言ったほうが近いかも知れません(笑)

 

ーそれから、自分の意志で今の道を選んだきっかけになったことはありましたか?

齋藤俊太郎さん:大学4年生の就職活動のタイミングですね。その時はまだ「家業を継ぐぞ!」とははっきり決めていたわけではありませんでしたが、就活に向けて色んな先輩に話を聞いていく中で、ある先輩が僕のことをすごく羨ましがってくれたんです。

「この年で将来の具体的な進路があるやつは珍しい。そのチャンスを生かすも殺すもお前次第なんだよ。俺だったらやるけどね。」と言ってくれて。それから前向きに酒造りのことを考えるようになりましたね。この家に生まれてきた自分にだからこそ与えられたチャンスなんだと。 

 

ー志の種みたいなものがその時芽生えつつも、東京で一度就職をされましたよね?どんな背景があったのでしょうか。

齋藤俊太郎さん:いずれ家業である麒麟山酒造を継ぐことは決めましたが、それでも一度は違う社会を見てみたいと思いました。また、せっかく経験をするのなら、酒造以外の事をやってみたいと思いました。日本酒の事は、家業を継げば嫌でもやらなければいけないわけですからね(笑)色々考えた結果、様々な企業のプロモーションに携わることができるのではと思い、広告代理店で働くことを決めました。

 

ーそれから5年くらい経って、新潟に戻ってこられたんですよね。自分の中で区切りがついて、帰ろうと思われたのでしょうか。

齋藤俊太郎さん:父からは、「3年ぐらいで戻ってこい」と言われていたのですが、仕事が楽しくなってきてしまって。社会人4年の頃、そろそろ戻らないといけないなとは考えましたが、同時に海外に対する興味もわいてきまして。最後の悪あがきで、仕事の区切りがついてから一年間アメリカへ渡ったんです。新潟に戻ってしまったら外には出られないだろうし、今のうちにやりたいことをやろうと思って。

28歳の時に、アメリカのコロラド州にある語学学校に半年間くらい通って、その後は一学期だけコロラド州立大学に行ってマーケティングを学びました。その後、ようやく新潟に戻り家業を継ぎました。といっても、すぐに経営をするわけではなく、まずは酒蔵で酒造りを学び、お取引先の酒屋さんや飲食店さんを訪問したりすることから始まりました。

麒麟山酒造

ー一番最初にぶつかった壁はなんですか?

齋藤俊太郎さん:まずは製造を学んで、次に営業。特に色んな酒屋さんを回る中で、こんなに小さい会社でも期待されていることが結構あることが分かって、会社を受け継ぐということにプレッシャーを感じるようになりました。「きちんと従業員を支えていけるのだろうか」、「お客様にこれからも支持してもらえるのだろうか」と、5年間くらいは何かある度すぐ不安になってしまったのを覚えています。

 

ー不安になってしまうのは、全体が見えるようになってきたからこそですよね。

齋藤俊太郎さん:そうかもしれないですね。会社関係の人たちからもそうですが、町の人達からも期待の声をかけられると、うれしいのと同時にそれがまたプレッシャーでしたね(笑)

 

ーその声援を力に変えられたり、「よし頑張ろう!」と転換したのはどのタイミングだったのでしょうか。

齋藤俊太郎さん:就活の時にアドバイスをもらった先輩のお話を先程しましたが、同じ先輩にまたアドバイスをもらったんです。

「お前が思うほど周りの人はそこまで期待なんてしていないよ。もし会社が潰れたとしても、他にも美味しい日本酒はたくさんあるし、従業員は別の会社で働けばいいんだから」と先輩が言ってくれて。その言葉をきっかけに肩の荷が下りて、自分の中で気持ちの切り替えができました。あまり周りの意見に左右されず、「こんな商品を出してみよう」「こんな企画出してみよう」「自分がやりたいようにやってみよう」と。

 

守りながら変えていく

麒麟山酒造のディスプレイ

ー1回就職をしてから家業を継いだことによるメリットって、どんなところにありますか?

齋藤俊太郎さん:どれほどのメリットがあったかは分からないですが、違う視点を会社に持ち帰ることはできたのかなと感じています。どの業界でも慣習があるように日本酒業界にも独自の慣習があり、それは麒麟山酒造にもありました。

「今までこうやって来たから」とか、「周りもこうやっているから」といった考えが先行してしまい、課題が分かっているのに解決できないといった状況にあった中、広告代理店時代の経験を活かし、課題解決のためには今までのやり方にとらわれない方法で柔軟にチャレンジすることは少しずつできるようになってきたのかなと。

 

実際に試されたアプローチ方法を教えてください。

齋藤俊太郎さん:麒麟山酒造は”スッキリとした辛口の日本酒造り”を何よりもよりも大切にしていました。私もその味わいが好きでした。しかしながら、日本酒業界の流れは”華やかで味わいのある日本酒造り”、つまり麒麟山酒造の特徴とは逆の方向に。

そこで、麒麟山酒造の出した答えは、“スッキリとした辛口の日本酒造り”をもっと極める、でした。今まであった製品を、コンセプトにあったもの半分に絞り込み、ラベルのロゴやデザインを統一することで「スッキリ辛口」のイメージを前面に押し出しました。今の潮流ではないかもしれませんが、根強い辛口ファンにしっかりと答える日本酒をもっと極めていこうと。普通に考えるとリスクのある選択だったのかもしれません。時には流行りに乗ることが生き残るための道にもなりますが、もともと根付いていた日本酒がおざなりになってしまうのは嫌だったんです。

 

ー自分たちの届けたいものを、正しいコンセプトで届けていくという取り組みをされてからの、マーケットの反応はいかがだったのでしょうか。

齋藤俊太郎さん:施策自体は今年の3月に変更をしたので、昨年との比較がまだできていないというのが事実です。コロナの影響もあるので、打った施策の影響なのか、コロナの影響なのかがまだわかっていないんです。もう少し先に明確な結果が見えてくるかなと思っています。

 

ーここから先、新たに挑戦されようとしていることや、試されようと思っている構想はありますか?

齋藤俊太郎さん:「麒麟山サワー」という、日本酒を炭酸で割って飲むという新しい提案をしています。現在では新潟市内だけでも150店舗くらいの飲食店さんでメニューに載せてもらっています。

いま麒麟山を愛してくれているファンの方にもっともっと好きになってもらえるよう努力していくのが最優先。次に、まだ日本酒の良さを知らない人たちにはそれを知ってもらえるように、日本人と日本酒との間にある垣根をもっと低くして、日本人の日常に当たり前に寄り添う存在になれるよう、日本酒の提供の仕方も色々なカタチで提案し続けたいと思っています。

 

大切なのは、地域の良さを伝えたいという想い

麒麟山酒造の齋藤俊太郎

ー日本酒業界って担い手問題や、後継者不足が話題になったりもしますし、一方で蔵人さんになろうとする若者がいたりする流れもあるかと思います。日本酒業界に必要な人材とは、どんなひとなのでしょうか。

齋藤俊太郎さん:“酒造りに興味があるとか”、”特別な技術を持っている”とか、そういうことも大切ではありますが、それよりも、酒蔵のある地域に関心を持ち、大切な文化や地域の魅力をどんどん外に伝えていきたいという、地域愛に溢れている方が必要かなと考えています。
日本酒ビジネスをしていると、地域おこしに近いことをやっているのかなとも感じるんです。原料となる水やお米、これらも地域が築いてきたものですから。

 

ーこれからの日本酒の未来について、どのようにお考えでしょうか。

齋藤俊太郎さん:業界では、今は海外に流れが来ていると思います。例えば、コロナ前のアメリカでは、日本酒はレストランでの消費比率が95%以上もありましたが、コロナになって家庭での消費が一気に増えていったんですね。皮肉なことにも、コロナによって日本酒がアメリカの家庭に入りこむ機会が生まれたわけです。

他の国でもそのような消費が生まれ、現在は日本酒の輸出は大変好調です。しかし、やっぱり日本酒は日本人に飲んでほしいと強く思います。ボーダレスな国際社会を迎え、日本の文化である日本酒の輸出は積極的に進めながらも、販売先をそこに頼ることはせず、本丸である日本国内での日本人による日本酒の消費をもう一度盛り上げていきたいです。

***

今回は、1843年創業の麒麟山酒造の7代目蔵元、齋藤俊太郎さんにインタビューをさせていただきました。「挑戦しつつ、守る」には何が必要なのか。後継者が持つべき覚悟を深くお聞きできました。

shabellbaseでは今後も新潟に関する記事を掲載していきます。
地方での起業やU/Iターンを考えている方、伝統文化に興味がある方は、次回の投稿も是非読んでみてください!

 

齋藤俊太郎さん
さいとう しゅんたろう|経営者


1967年、新潟県阿賀町生まれ。大学卒業後は広告会社に勤務し、30歳で麒麟山酒造に入社。そして2006年に代表に就任。2009年に新潟県酒造組合青年部(新星会)会長に就任、2015年には、にいがた酒の陣実行委員長に就任し、精力的に日本酒業界で活躍を続けている。
麒麟山酒造株式会社HP:https://kirinzan.co.jp/
酒の国にいがた インタビュー記事:https://www.niigata-sake.or.jp/interview/

 

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